トリチウム水の海洋放出が始まりました~放射性同位元素と遺伝子研究の今昔を考えてみた

福島第一原発の処理水の海洋放出が昨日から開始されました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230824/k10014172541000.html

トリチウムとは3重水素と呼ばれる水素の放射性同位体です。私のざっくりとした知識では本来の水素の原子核は陽子一個だけでその周りを1個の電子が回っています。3重水素とは陽子1個と中性子2個からなる原子核をもつものです。トリチウムβ線という放射線を出して崩壊しその量が減っていき、もとの量の半分になるまでにかかる時間(半減期)は約 12.3 年です。半分になるまで12.3年なので、その倍の約25年でゼロになるのではなく、25年で半分の半分の1/4になります。ということは私の年齢からすると、海洋放出されたトリチウムは私の生きている間でせいぜい1/4になる程度ということになります。そう聞くと大して減らないようにも思えるかも知れませんが、実際には海洋放出されると、その何億倍という海の水で薄まります。科学的には海洋放出はシミュレーションにより安全であることが証明されており、おそらくは正しいものと想定されます。日本の海洋放出に反対している隣国などでも海洋放出が行われており、日本のよりもトリチウム濃度は高い状態で放出がなされていると報道されていました。隣国により日本の海産物の禁輸措置は多分に政治的な意図が見て取れます。一方で科学的に安全性であることはわかっていても、一般の人は海洋放出された海域で上がった魚を食べることを忌避する人が出てくることも多分に頷けます。感情は科学を超越したところにありますので。
ところで放射性同位体(RI:ラジオアイソトープ)はかつて医学研究・実験でも盛んに使われていました。私が遺伝子解析の研究をしていた30年前頃は、塩基配列を決定するのにサンガー法という方法を使うのが一般的で、DNAを構成する塩基(A, C, G, T)をリンの放射性同位体(P32)で標識して、電気泳動を行い、それをレントゲンフィルムに写し取って(これをオートラジオグラフィーと言います)信号の順番を読み取るという地道な作業を行うのが普通でした。信号がはしごの様に見えるのでラダーと呼んでいました

(写真はBiotechniques. 1998 Nov;25(5):876-8, 880-2, 884. doi: 10.2144/98255rr02.  いまさら聞けないサンガーシーケンスのこと ~その1:DNAシーケンスのゴールドスタンダードになるまで~ https://www.thermofisher.com/blog/learning-at-the-bench/ce_basic_dna_gsd_ts_2/より引用)。
ちょうどその頃からRIを用いない方法が開発され、蛍光色素で標識して、それを機械で読み取るオートシーケンサーが徐々に普及し始めましたが、最初のころは機械で読み取ったデータは信憑性が低いという批判があり、権威ある欧米の雑誌ではオートシーケンサーのデータはなかなか受け入れられない時代がありました。

オートシーケンサーのデータが採択された1996年の遺伝子解析の論文の図を示します(Aoshima M. et al. Two-Exon Skipping Due to a Point Mutation in p67-phox-Deficient Chronic Granulomatous Disease. Blood, 88, 1996: 1841-5より引用)。現在でもこのサンガー法を用いた塩基配列決定は当時より効率がよく正確な方法に進化して研究や臨床検査で用いられています。一方で特にガンのゲノム治療などでは網羅的な遺伝子検索が必要となってきたため次世代シークエンサー(NGS)が用いられています。対象となるガンではどんな遺伝子の異常があるのか、効果が期待できる治療薬の候補の有無なども知ることができる時代となってきました。この分野の進歩はめざましく、手作業で遺伝子の塩基配列を調べていた時代はまるで石器時代の様に思えます。
RIの使用は厳密に記録し管理される必要があり、私が研究を行っていた施設では限られた区画内での使用でしたので、その区画への入退室も厳密に記録されていました。また退出時には放射線汚染がないかもガイガー計数管でしらべなければなりませんでした。実験で用いていたP32は半減期が14日程度でしたので、入荷したら早く実験で使い切らないと放射能がなくなりレントゲンフィルムも感光しなくなります。それから比べるとトリチウム半減期は長く感じますね。このRI実験区画は私たちの入退室については厳密でしたが、実験中ふと足下をみるとゴキブリが這い回っていました。心なしか大きいような・・・放射線で巨大化するというのは怪獣映画の定番ですが、こいつらは自由に出入りしているので、管理区域外も放射線汚染が起こりうるのではなんて冗談めいたことを考えてしまいました。
今回の原発処理水の海洋放出の必要性はCOVID-19を2類から5類に変更したことよりも科学的根拠があると思いますが、感情で行動する国民性からすれば風評被害が出る可能性は予想されます。政府は東電に風評被害への補償を命じ、東電社長も風評被害が出た場合の補償を明言していますが、原資は電力料金値上げへの転化、また政府が補償を行うとすれば新規の増税への転化になることが危惧されます。ただでさえ電力料金は高く、またガソリンもサウジアラビアの減産継続もあって天井知らず、そのほかの物価も上がり続けていますよね。好景気と言われているのに好況感はなく、潤っているのは投資家ばかりという状況。海洋放出が更なる私たち一般人の日常の悪化につながらないことを願っています。